IE9ピン留め
2006年 02月 19日
日本の政治改革とカナダの実例




日本の政治改革とカナダの実例
東京福祉大学名誉教授 窪田 明著
2006・02・18

小生は、約三十年の間、カナダの田舎の大学で教えて来たし、政治学者でもあったので、勿論、カナダの政治には、常時、関心を持って居た。 ただ、正直に言って、カナダの政治を日本の政治と直接比較し、真剣な形で、此の二者を同時に分析する事を余り真剣に考えた事は無かった。 何故、日加の比較に対してあまり関心が無かったのかと言う理由もそれ程ハッキリしなかったが、その一つ理由は、日本とカナダは、その主な特徴が、余りにも異なり過ぎると言う事であったのかも知れない。 

日本は、領土的に狭く、人口密度は高く、其れに対して、カナダは、領土的には、世界で二番目に大きく(第一位はロシア)、人口密度は極度に低い。 日本の国語は一つしかないが、カナダは、正式に英語と仏語の二つの言語が、国語となって居る。 日本は、かなり歴史的に古い国だが、カナダは、比較的に新しい移民国だ。

ところが、筆者は、今年の初めに、日本のエリート行政官の会合に、幸運にも招待されて、その様な光栄の場で、セミナーを司会する機会を与えられたが、その際に、日本政府の最高レベルの人々から、「カナダは、日本と同じ様に、議院内閣制なのだから、何かカナダの現存の制度とか習慣で、日本の現在の政治改革に役立つ事柄はなのか」と言う様な形の基本姿勢での知的挑戦を受け、ある意味では、すきを突かれた様な格好で、その場では、多少、当惑し、必ずしも、筆者は充分に反応出来なかった様な気がした。 後で考えると、講演者にとって、何か物足りなかった返答の様な気がした。

尤も、よく考えてみると、日本の文献で、「カナダの例に従って、日本の政治改革を推し進めよ」と言う様な形の主張を主題にした様なものは、比較的に少ない。 筆者も、「検証・小泉政治改革」(東京: 碧天舎、2004)で多少なりとも、日加政治比較を試みて見たが、しかし、此の小冊子の主な焦点は、当時、進行中の日本国内での小泉政治改革の実質の確定と分析であった。

その後、数ヶ月間に亘って、筆者は、更に、“日本の政治改革とカナダの実例”と言う問題を、多少なりとも更に本格的に考察し始めたて来た積りであるが、筆者が現在の時点で、その様な事で、気の付く事柄は、大きなものでは、四点位あると思う。 其の一つは、政治参加で、此の政治参加は、更に、二つに分割され、「選挙の投票者としての参加」と「選挙の候補者としての参加」である。 第三番目の点は、地方自治の内容の管轄の問題で、例えば、義務教育の担当者は中央であるべきか地方であるべきかと言った問題なのである。 四番目には、連邦制度である。 筆者がこれから本文で展開する論点の基本線は、この様な題目を中心として、現在のカナダの実態を検証し、分析し、理解して行き、その結果として、提案の形で、その様なものが、或は、日本の現在の政治改革の参考資料として利用し、活用出来るのではないかと言う事を検討しようと言うものである。

何十年も前の昔の話であって恐縮であるが、其の頃の日本の大学の政治学では、比較政治研究と言えば、大体、憲法論が中心的で、その様な意味で、大統領制とか議院内閣制言った形の区別は、大変重要な事項であった。 しかし、その後、世界的には、米国を中心として、行動科学的社会科学研究が多いに成長し、その様な形の研究では、人間の態度とか行動が研究対象の直接的な中心点になり、法律とか組織は、比較的に、二義的な研究対象に引き下げられてしまった。 心理学的な実験、対人面接、世論調査、集めたデータの統計学的分析、数学的、コンピューター型シミュレーション等を主な研究方法として利用する様になって行った。 勿論、此の様な行動科学的な研究哲学の世界に於いて、比較的に言って、「議院内閣制だから、日本をカナダと比較する特別な意義がある」と言う主張は、其の価値が、必然的に低くなって仕舞った様だ。

仮説的な説明ではあるが、例えば、現在、数百名のカナダの学生を一堂に集めて、日本、カナダ、そして米国の三つの政治制度を彼等に比較させたとし、其の類似性、異質性を検討させ、其の三者を分類させたとする。 そして、その結果、彼らの大多数が、日本とカナダを一つのグループに入れ、米国を別の種類として取り扱うと言う形の選別の仕方をするのであろうか。 若し、そうだとするとすれば、議院内閣制対大統領制の軸が、基本的な分類次元であると想定される。 筆者の長年の体験から憶測すると、現在のカナダの学生の大部分はそうは考えないと思う。 寧ろ、彼らの大多数は、米国とカナダの二国を一つの種類と考え、日本を一国だけの別の種類と考えるであろう。 そして、多分、その際に、其の背後に考えられる根本的な軸は、英米政治文化の基盤であり、英連邦諸国群と米国との特別な繋がりであろう。

現在、カナダの人口の大部分が、米国との国境のすぐ近くの地域に居住し、例えば、テレビ、新聞とか雑誌は、米国のものが、相当深く、カナダに浸透している。 一般に、米国人は、カナダの政治には余り注目しないが、カナダ人は、米国の政治に相当の注意を払う。 カナダにとって、対米関係は、重要な題目であるので、カナダのニュ-スの番組でも相当の時間を占める。 その様な場合に、其の一般的な背景として、米加の政治、又はその背景、の同一性とか調和性は、ほぼ自然的に想定されて居る様だが、其の逆に、その相違性を強調する様な論調は少ない様だ。 例えば、カナダのニュ-スの番組で、「米国は大統領制なので、議院内閣制のカナダと異なり、米国の大統領が米国の連邦議会を突然解散すると言う様な事は出来ない」と言った論点を強調する様な事は、極めて希の様である。

尤も、歴史的には、米加は、その対英外交政策に関して、基本的に正反対の立場にあった。 米国は、英国に対し、革命を企て、遂行し、正面から対立した。 これに対して、カナダは、英国の同盟国の様な形に常に留まった。 建国当時のカナダの政治首脳の一部は、米国の対英独立戦争に反対した米国からの亡命者で構成した。 英国に対立するとすれば、当然、非王室主義の立場をとり、共和主義的になり、大統領制が当然想定され、王様の絶対権力に対抗すれば、勿論、三権分立と言う事になるのである。 確かに、独立戦争時代の米国政治首脳は、英国に対抗したが、しかし、それ以外の全般的な文化の面で、その当時でも、完全に反英的に進展した訳でもなく、今日に至っては、少なくとも、英国の文化遺産を受け入れると言う意味では、米加間に、それ程大きな対立はない。 

確かに、今日、外交政策とか、米加貿易問題では、米加間には、多少意見の相違はあるが、国際的親近感とか其れに類似した次元では、米加間の距離は相当に近い。 一般市民の感覚の問題として、カナダの人々が、「政治類型的には、カナダは、日本の親戚であって、米国は赤の他人みたいの様なものだ」と考えて居るとは、どうしても、筆者には、信じられない。 それから、米加の政治の「草の根」の実践の面に関しての日本の一部の指導者とか知識人の理解程度は、やや限られて居るのかも知れず、本記事で暫時説明するが、米加では、かなり相互に似て居る面もあるのであり、此の二国が日本に対比されると、米加は日本からはかなり異なる面もある。 

それから、「民主化」の程度に関しては、米国が、日本の一部の人々が考えて居るより以上に進んで居る面もあるのである。 尤も、其の話は、「人種差別とかその他の米国特有の一定の問題を除外して」と言う条件が付くのであるが。 詰まり、米国の政治学では、例えば、トックヴィルの著名な研究(「米国に於ける民主主義」)で強調されて居る様に、「平等」が大きな特徴なのである。 但し、その場合に、トックヴィルの時代でも奴隷制とかその後の黒人差別制は存在したし、その様な項目は、その様な研究では、奇妙な事に、ご都合良く、無視され、除外されて居るのである。 此のトックヴィルの恣意的な差別無視の立場は、現在、筆者が、本当に支持する研究態度ではないが、多くの他の北米の学者は筆者とは別の立場を取って居るのも事実の様だ。 米国政治学と言う大流に対し、残念ながら、無名な一研究者が挑戦する事も、これも又極め大変な事の様だ。

さて、第一項目の「投票者として、政治参加」の説明に入るが、少なくとも、日加の間で一つ異なる点は、カナダの場合に、連邦下院議員(日本の衆議院議員に相当する)の政党による指名(日本では公認)の際に、該当の党の党員であれば、一般の選挙民でも、直接参加出来るのである。 何処の国でも、総選挙の前の時点で、各党が、自分の党の支持する候補者を正式に指名するが、其処迄の過程に付いては、日本もカナダでも同じであるが、異なる点は、日本では、一般投票者は、正式な党員であっても、その様な過程に参加出来ないが、カナダでは出来るのである。 カナダでは、各選挙区毎で、選挙区大会(riding association meeting)と言うものが開かれ、党員である限り、一般の有権者が、其処に出席して、一票投じる事が出来るのである。 其処での投票者は、役職に関係なく、例えば、州会議員であるとかないとかに拘わりなく、均一の価値の一票を投ずる事が出来るのである。 確かに、日本の自民党の総裁選の様に、一般党員がその選出に参加する場合もあるが、その際に、国会議員の一票の重さが特別に大きく決められて居り、全部の参加者が平等に扱われて居る訳ではないのである。 それから、カナダでは、党員であるか否かの検証もそれ程厳格ではなく、日本の様に、少なくとも二年間継続して党費を納めて来て居ないと投票資格が無いと言う様な厳重な条件は存在しない。 又、逆の形で、説明して見ると、少なくとも、カナダの一部では、選挙区大会の直前に、非党員が党員に突然鞍替えして仕舞い、そして、スレスレの形で投票する事は完全に可能なのである。

此れに対して、日本の場合には、自由民主党(自民党)の衆議院議員の場合には、党則によると、指名は原則として、党本部が行う事になっている。 それから、日本の政治用語では、「指名」と言うより「公認」と言う表現を通常使う。 党には、その為の、特別な委員会が設けられて居り、其の組織が、実務を担当するが、勿論、党の幹事長とか総裁と言った執行役員もその過程に参与出来る。 2005年9月11日の総選挙の際には、所謂“刺客”が公認されて居り、現役であっても、郵政民営化に関して造反した議員は、党の公認を受ける事が出来なかった。 確かに、この様な処分は、それ以前の造反を警告する党の総務会の正式な議決の存在等を考えて見ると合法的な様だ。 但し、その様な対国会議員への露骨な対処策は、従来の自民党の慣行とは大いに異なる。 従来の慣行は、現役は、ほぼ自動的に公認を受け、それ以外の場合には、大体、該当の選挙区に関して所轄権を持つ党の特定の支部が、公認に付いて、大体、実質的な決定的な役割を果たした。 詰まり、該当する党支部の内的な勧告がほぼ自動的に中央本部により最終的に受け入れられて居た。

と言う事は、選挙区単位で、それぞれの地方を基礎として、公認の実質的決定が為され居たと言う事である。 では、党の支部は、どのような形で公認の勧告の決定をしたのかのであろうか。 少なくとも、日本の自民党の場合には、一般の党員とか選挙民は、直接には、此の過程に、関与して居ないのである。 日本の自民党の党支部は、大体、県単位で構成され、県知事、県会議員、その他の地方の政治有力者に実質的に握られて居るのである。 カナダには存在しない慣行であるが、日本では、衆議院議員は、一定数の県会議員その他の地方の政治的有力者を自分の支持者とて安定した形で確保して居るのである。 小泉首相は、この様な強い地方の支持の根源を無視して、かなり強引に、“刺客”を送り込んで行った訳であるが、此れは、歴史的には、やや例外的な処置で、小泉郵政民営化改革以前には、殆ど使われる事がなかった手法なのである。 党の公認に付いてのやや独立した地方自治的傾向は、それ程強い政治慣行であった。 更に、日本の場合には、党の公認に関して、数回先の総選挙に関しても、その候補者を決めてしまう事もある様だ。 その場合に、大抵、現役の議員の子息の場合が多い。 日本に於ける国会議員の世襲の率が世界的に飛び抜けて高い一つの理由が、日本特有の党の候補者公認過程の習慣にある様だ。

カナダで現に行われて居る様に、一般の党員を党の候補者の指名過程の為の会合に参加させるのも、一つの方法であるが、其の仕事をもっと根本的に民主化して、「党員全員参加の選挙の形にしたらどうか」と言うものもう一つの方法なのである。 其の方式は、「予備選挙」(primary)と呼ばれ、現在、既に、米国では、多くの政治のレベルで、かなり大規模に行われて居る制度なのである。 詰まり、党の候補者の指名方式には、北米では、大きく分けて、二つの形があり、それは、「大会方式」と「予備選挙方式」である。 カナダでは、今迄の処、予備選挙は行われて来て居ないので、「草の根」からの政治的入力と言う点では、指名とか公認に関しては、米国の方がカナダよりより民主化に付いて一歩進んで居るのである。 日本では、現在の処、此のどちらの方式も採択されておらず、米加よりも多少遅れて居ると批判されても仕方がないかも知れない。 日本の自民党の総裁は、全国的な特別の党大会で選出され、その際に、投じられる票の価値が、一般党員と国会議員とは大きく異なり、日本では、「草の根」からの政治入力は、逆に、過小評価されて居ると言う実態である。 日本でも、戦後、自民党は、予備選挙を試みた事もあるが、その評判は余り良くなく、現在はその様な手法は少なくと一時的には停止されて居る。

最近、日本では、農協の組織の中で、予備選挙を行う予定だと言う報告がある。 これは、一利益集団の中で私的に行われるもので、政党の中で行われるものとは、種類が異なる。 米加の場合にでも、非政党組織内で予備選挙の行われる例は余り聞かない。 しかし、日本の農協の場合には、過去は、通常、引退した高級農林官僚を登用して来たのに対して、今度は、別の「草の根」の代表を探す新しい努力を始めた様で、その様な新体制の一環の試みであるとすれば、そして、その組織内の予備選挙の結果を、その後で、どれかの政党が正式に受け入れるものとすれば、日本に於ける公認過程の一部の民主化とも考えられ、その様な政治過程は、予備選挙の歴史的性格を依然として保持して居るとも言える様だ。

ほぼ百年位前になるか、米国では、その頃、政治改革の議論がかなり盛んであった。 新しい社会思想が紹介され、共産党宣言(1848年) とか「社会的ダーヴィニズム」(social Darwinism)が、当時注目され、進歩党(Progressive)等と言う政党も出来て居た時代であった。 其の時代には、政治権力を政治のボスから取り上げ、「草の根」の人民に渡すと言う様な意図の下で、1903年にウイスコンシン州で始めて、予備選挙が実施された。 英語の表現では、「(多分葉巻の)煙草の煙に満ちた部屋」で決められて来た候補者の選定過程を、公開の場で、もっとキレイな空気の下で、もっと広範な選挙民の意向に直接に従って、選挙と言う形態を使って、本番の選挙の際に、一体誰を最終的に候補者として正式に押すかと言う事を決定しようと言うものである。 尤も、予備選挙と言っても、現状は、今日でも、多種多少の方式が存在し、その全体は、極めて複雑なものであり、米国では、多くの事柄が州単位で決められるので、千差万別的なのである。 しかも、現在の時点でも、其の様な制度の詳細に亘っては、常時、修正の手が加わって居るし、進化、成長している。 非常に大雑把に言って、此の予備選挙制度は、米国では、成功したものではないかと思う。 少なくとも、現在の米国では、政党の指名の過程を元のボスの支配下に戻すと言う話はない。 その様な逆行は問題にならない様だ。 米国の予備選挙と言うと、日本では、主に、大統領選挙を中心に、よく知られて居るのあろうが、事実は、それ以外の低い政治のレベルでも広範に使用されて居るのである。 一部の日本の人々が、現在の米国はかなり保守的で、反改革的だと考えるだろう。 しかし、ある種の特定の限られた改革に関しては、米国は日本の百年位前の先輩なのかもしれない。

日本でも、今回のポスト小泉総裁選で、一時、予備選挙の事が話題になった事があったが、その後其の様な提案は余り党内の強い支持を受けなかった様だ。 麻生太郎、山崎 拓、加藤紘一等の諸氏が、消極的な態度を示した。 小生の此の点に関しての理論的な解釈を紹介させて貰うとすると、日本の多くの組織の理論的基礎は家族主義的構造で、「ウチ」と「ソト」の壁が高く、”ウチの問題は、ウチの中で解決し、別に、ソトの他人の介入は必要ない」と言うものであり、「予備選挙の様な形で、裾を広げて、外部の人が参加する可能性を高める必要はない」と言うものらしい。 別著で述べた事であるが、米加に比べると「日本の自民党組織は、大体、主として国会議員の為の政党であって、そして、必ずしも、党員全体総合を中心としたものではなく、その総裁は、大体、国会議員全体の合意を中心として、決められるべきものだ」と言うものである。 筆者は、カナダの日本学会で、「日本の社会的家族主義」に関して論文を発表して居るが、例えば、日本の労働組合は、企業単位で、構成され、産業的には分裂型で、北米の其れの様に、産業単位の単一組織には固まって居ないのである。 一般に、どの社会でも、個々の家族と家族の間の壁は高く、一家族で誰が実際に相続するかと言う様な重大な問題の処理には、その家族内だけの合意で決まって仕舞のである。 隣近所の意見は問題にならないのである。 それと同様に、日本の自民党の総裁選も、日本の文化を重んじた形の想定の下で類推してみるとすると、「国民全体の強い支持のある人物」とか「次の総選挙で、自民党が過半数の議席を獲得する様な事を可能にする指導者」と言った様な事項は、最大の関心事にならないのである。 その点が、北米の政治とは顕著に異なるのである。

(下に続く、上のみ)

by a_kubota1 | 2006-02-19 21:40


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